CommodoreOne remake of the 1980's Commodore 64(前半)

bbb: Steve Dekorte's Web Log
スタンフォード大のコースComputer Systems Laboratory Colloquium2005年5月18日の授業ビデオ.話すのはJeri Ellsworthさん.一語一語の書きおこしではなくて適当にまとめてある.それでも長い、長い.ので力尽きて前半どまり.

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Jeri Ellsworthさん(Freelance Developer)の紹介: エレクトロニクスの正式な教育はうけてない.レーシングやシャーシの製作に関わり、コンピューター店のチェーン会社を立ち上げ、色んな人に会って影響を受け、その会社を売ってVICデザインの道に入り、Commodore 64のリメイクに至った.(02:06)
高校をドロップアウトして大学もいってない私がスタンフォードで話すのはどきどきします.スタンフォードのウェブも時々見てるし.技術的な話をしようか個人的な話をしようか迷いましたが、技術的なことは充分だろうからこれまでの人生の話をします.(04:05)
オレゴンの小さな町、9マイルも街から離れた小さな家で、兄?と一緒に父一人に育てられました.小さい時から電子的なものに興味をもっていて、何でも分解してしまうので父は普通のプレゼントをくれなくなって、やっていたオイルスタンドに箱を置いて、お客さんに壊れた家電みたいなものがあったら入れてジェリー分解屋に寄付してくれるよう頼み、プレゼントには箱いっぱいの壊れたものをもらっていました.全部自分の部屋におかないといけなくて、部屋はもうめちゃくちゃ.分解するだけで仕組みまではまだ分かってなかった.なぜか起業家精神をもちあわせてて、学校で部品を友達に売ろうとしたりもしてた.ここ(スタンフォード)でやったら成功してたかもね.自分の部屋が一番のお気に入りの場所でしたね、私の研究室で、何かを分解したり創ったりするところだった.(07:26)
コンピューターは8,9歳頃まで経験はなかった.父の友人の家にいった時、TI994aにさわって、プロンプトに何か適当なコマンドを打ち込んでは(syntax errorとは出るんだけど)そのうち何かグラフィックとかゲームとか作るんだ、と楽しんでいました.そのうち父の友人の息子さんがプログラマーマニュアルをくれて、一緒に載ってたジングルズ氏なんていう画面を踊るキャラクターを作った.それで、よぉしわかった、プログラミングってこうするのね、と思ってその本をむさぼり読みました.汽車が走ってきてジングルズ氏をひいちゃうようにさせたり.それから自分でもコンピューターを手に入れなくちゃと思って、買い物に行ってもコンピューターのところに父をひっぱっていって、どれが何かも分からないのだけど「これがいい! あれ!」っておねだりした.でも父はどうせ分解しちゃうだろ、なんて言って買ってくれなかった.たぶんその通りだったでしょうね.でも、父はちょうど自分の事業を立ち上げているところでお金があまりなかったけど、子供のためにはコンピューターを覚えるのは大事なことだと考えて、Commodore 64を奮発して買ってくれたんです.(10:19)
そうしてプログラミングを覚え始めました.当時はコンピューターとかエレクトロニックなものはまだ魔法みたいものだった.Commodore 64にはビデオゲームのカートリッジがあって、私は、これはただ接続ピンをうまく接続すればゲームが出来るんだと思って、フォークとか錆びた釘を差し込んで何とかして作ろうとしたの.電源を入れたら画面がきれいな色が出るもんだから、きっともうちょっとなんだ、と思ってやり続けてたら壊しちゃった.あんまり飲み込みが良くなかったもんだからおんなじことをして2,3回は壊したと思う.[ヒューズを直してコンピューターを直してしまった話](12:50)
そのうち、分解したものを元通り組み立てるようになりました.これは大きな一歩だった.そのうち、手を加えるようにもなった.電卓を早く計算させるようにしたり.(これは最初のクロックアップといってもいいかも.)どういう音を立てるかにも興味を持ちました.壊れる直前の音とかね.電子回路がどんな状態か、音のトーンだけでも色んなことがわかるものです.ごく最近まで実際に音で診断していましたよ.(15:16)
それで、電子回路では何をしてはいけないか、なども覚えました.兄の部屋にいたずらをしたりして.父はいつもけがをしないかと心配していました.私がいつも危ないことをしてるものだから.父は電話を持つのを許してくれなかったから、自分で電話機も作りました.気付かれないように工作もして.そのうち見つかりましたが.(18:10)
[電子部品を切らす話.今でも箱に一杯部品をためている](18:53)
一番最初の指導者というべき、電子工作の仲間にも恵まれました.週の真中の深夜にバイクで集合して、どっちの工作の方が上か競争したり.部品の交換会にも行って、出店してる人との話し方も覚えた.終わった後でくれるように話をつけたりね.持ちきれないほどもらっちゃうようになって、バイクで持ち帰れないほどだったから会場の外の茂みに隠して何日かかけて運んでました.学校では人気者じゃなかった.シャイだったし、いじめられました.いじめられていじめられて、そのうち、ある日、堪忍袋の緒が切れて、もっていた分厚い生物か数学の本でフリスビーを投げるみたいにして椅子に座ってた男の子の横面をはりとばしたの.父は怒ったけど、学校に戻ったときは、みんなから尊敬の目で見られました.(23:51)
それがきっかけで、他の、ワイルドになれるようなことも探すようになって、パンクステージにも行ったし、小さい時から父がたまにレースをしていたので、溶接を覚え始めました.父は反対したけど.もう車を運転してたので、レース会場にいってやってる人の話を聞いたり、こっそり巻尺であちこちの長さを測ってノートに書き込んだりして.18か19でしたが、そのうちに初めての自分だけで作ったレーシングカーを完成させて、よし、記録を破るんだと思って出場した.最初の年はさんざんで、40人中38位.でもほめられたし、その歳で必要な認知と尊敬も、まわりの人や同輩からうけたと思う.(26:06)
それで、レースでもっと上を目指そうと思って、その筋の本を書いてたフロリダの男の人に電話をかけて、どうしたらよくなるの、なんて言って困らせてました.すると手紙がきて、一週間働かないかって.行きました.一週間働いて、話して、彼は指導者となってくれました.車のことももちろんなんだけど、一番学んだのは、レースは人の心理がとても大きく働いているということ.真似しようとする競争相手をごまかすこと、とかね.帰ってきてから、それまで真似ばかりしてたのをやめ、一新して自分の車を良くしていって、成績も上がりました.他の人が私の真似をするようになって、ほんとにごまかさないといけなくもなりました.[心理戦の話] 飛行機やインディーやF1からもアイデアを取り込みました.それで、19か20でシャーシを売ってお金が入るようになって、レースでもお金が入ったし、そのうち高校をやめてしまいました.(30:52)
[レースの見物人とのやり取りについて](32:04)
レーシングでは、革新的な仕事もしたし、色んな人に会って、指導もしてもらった.注目もされてうれしかったけど、溶接なんかでけがもして、恐い時もあったから、別のことを探してもいました.そのうち友達の家に行ってる時に、コンピューターがいい儲けになるじゃないかってことになって、車の方のものは6000ドルくらいで売ってしまい、コンピューター店を開きました.ここでも沢山の指導者に出会いました.店の向かいに保険代理人の人のオフィスがあって、彼はコンピューターに入れ込んでる人でした.とても辛抱強い人で、お昼を食べたり、控えめにHow to win friends...の本を薦めてくれたり、服装を変えたほうがいいかも、とか、アドバイスをくれた.彼のことは尊敬してた、私が目指す道における成功者だったから.でも初め私はまだパンクスタイルで、友達がやいやいどうしてそんな格好するの、話し方変えたの、夜の真中にパーティ行こうよとか言ってくるのね.反対方向に同時に引っ張られてる状況だった.ここでも指導者に助けられたわけです.(35:06)