apophenia: Web2.0 が何故大事か: グローカライゼーションへの準備

apophenia: Why Web2.0 Matters: Preparing for Glocalization
参照: http://www.goodpic.com/mt/archives2/2005/09/glocalization.html

最近僕はWeb2.0が何なのか説明する必要におちいった。何というべきか、これほどその意味について何の合意もなしに持ち上げられ、騒がれた流行語もない。Web2.0 会議ではプラットフォームとしてのウェブのことを議論している。ビジネスのにおいがして、とてもあいまいな考え方だと思うのだが。技術屋とデザイナーでは別の考え方をしているらしい; 技術と標準化に注目するか、どんなユーザー体験が得られるかに注目するか。Wikipediaでさえも定義は混乱しているし、定義を集めてみても内包的な定義はできない。Web2.0 にはさらに幾つかの流行語 Buzzword がくっついている: リミックス remix、タグ付け tagging、ハッカビリティ hackability、ソーシャルネットワーク social networks、オープンAPI open APIs、マイクロコンテンツ microcontent、パーソナル化 personalization。読み取り専用システムから読み書き可のシステムにウェブは移行しているのだという話もある。そういう話が好きな人は GreaseMonkeyAjaxRSS/AtomRuby on Rails のようなテクノロジーに目を向けている。オープンさとコントロールすることとの逆説的な関係についても忘れてはいけない。一つ確かに言えるのは、Web2.0の話はみな_次にクルもの_について政治的立場を表明しているのであって、それが何かは誰も分かっていない。
個人的には僕はビジネス上の説明にも、技術上ユーザー体験上の説明にも満足していない。それでも、確かに変化は起こっていると思うし、理屈ぬきにはまっているところだ。だからこう自問せざるを得なかった: Web2.0とは何の事で、なぜ重要なのか? 答えはグローカライゼーションにある。

ローカライズされたネットワーク

ビジネスの世界ではグローカライゼーションという言葉は普通、グローバルな製品が特定の地域のローカルな慣習や文化にとけ込むように適宜変更を加えられるような場面で使われる。一種の国際化だ。だが社会科学の分野では、ローカルな場とグローバルな場の間で何らかの相互作用が現在進行形で行われているようなアクティブな過程(単なる固定点ではなく)を説明するのに使われている。言い換えれば、グローバルな圧力がローカルな文化によって改変され、再びグローバルの方へ差し戻されるということがコンスタントに繰りかえされるような状況だ。こう考えてもいいだろう; グローカライゼーションとは、グローバルとローカルの間に途切れることなく情報が流れ、交差点で変化する、複雑なタンゴ即興のダンスだ。
ウェブのブームの時は、あらゆる物と人をオンラインにしようとしゃかりきの努力がされていた。グローバルな村を作ろうとしていたのだ。しかし、全員を村の広場に押し込めようとしてもカオスなばかり、人々はそれぞれ違う意図と違うゴールをもっている。与えられた構造は各々の必要のために再構築される。私たちが前にしているのは、一人一人の価値観の合わさったデジタル世界だ。これは検索するときに最も顕著にあらわれる。例えば、「胸」という検索語に対するベストな結果は何だろう? 誰に聞いても、それは文脈による、ということになるだろう。僕は癌について調べているかもしれないし、あなたならどうだろう?
グローバルな村においては種々に異なる文脈が前提となり、階層的な検索では文脈は万人共通であると仮定される。両方とも現実の人間の行動を近似したものとしてはお粗末なものだ。私たちはこの現状を打開しようと技術的な解決策を開発しつづける。評判システム、フォークソノミー、推薦システム、だがこれらは方程式そのものではなく、偏導関数にすぎない。こんなことを言うのは否定しようという訳ではない、皆重要なものだ; 変数をもとに答を引き出し方程式の軌道をより精確な近似で求めることができるのだから。だが、ここで解こうとしている方程式とは一体何なのだろう?
経済のレベルでは、グローカライゼーションは良い点もあれば悪い点もある。だが個人レベルでは、グローバルな村に本当に住みたいと思う人はいない。全世界の人と親密なつながりを持つ望みはない。グローバルな村のおかげで数え切れない情報源と誰とでもつながれる可能性はあっても、人はそれぞれ自分に関係のあることに関心を抱く。本当に大事なのは(概念的に)「ローカル」なことなのだ。ビジネスにおけるグローカライゼーションでは、ローカルといえば地理的なことを指す。だが、デジタルなグローカライゼーションにおける「ローカル」とは文化やソーシャルネットワークの中でのことだ。あなたが大切に思うのは自分に似た人であり、共鳴することのできる文化を取り込もうとする。極端な意味では、ローカルとはあなたただ一人のことだ。もちろん地理的な要素もここでいうローカルにはある程度含まれる。自分の住む地域にいる人々は文化を共有しているだろうし、人的ネットワークからいっても近いつながりがあるだろう。けれどもこれは絶対というわけではない。実際、地理的に隔絶された人たちが一番最初にデジタル化の波に乗った - グローバルを迎え入れることで、物理的な場所に囚われずに心から共鳴できる人を探したかったのだ。
ウェブがスタートした時、場所の概念がもう意味をなさなくなるというのがキャッチラインだった。もちろん今は私たちはそんなことは全くないと知っている。だがデジタル化によって社会のネットワーク構造は確かに変化し、地理上のつながりを興味によるつながりが補完するようになった。Web1.0 によってグローカライズされたネットワークのインフラがつくられたのだ。

Web2.0 システムをグローカライズする

ローカライズされた構造とネットワークが、Web2.0のバックボーンだ。すでに今、世界を地理的な概念で理解するかわりに、ネットワークモデルを使い、人々と文化の相互関係を理解し、ローカライゼーションを場所ではなく社会構造によって考える必要がある。これはひどく際どい仕事だ。ネットワークは明確な境界やまとまりもない; 社会の複雑さは一桁上がってしまっているのだ。
これに対して私たちが最初にこころみた近似は個人対共同体というものだった。そして個人・パーソナルが決定的に重要である - それがローカル化の極限であり共同体への寄与は個人から始まる。タグ付けのことを考えてみよう - これは個人から芽がでたものが集合体に築き上げられることにつきる。だがゴールはユニバーサルな共同体に向けられるべきではなく、ローカルに設定されたもので、沢山のローカルな文脈におかれたものでなくてはならない。このことは非常に重要だ。なぜなら、個人と共同体はお互いがなくては存在し得ないからだ; 両者は共に構築され相互作用の中で定義される。個人的なアイデンティティは共同体の文脈の中で築かれ、共同体は個人個人の相互作用の中から創発する。
私たちはソーシャルネットワークによって共同体と個人の関係をみる視点を手に入れた。このことから、ソーシャルネットワークWeb2.0を語る際の基本となったわけだ。ローカルでは何が必要とされているかを知るために、人々と共同体とがどのような関係にあるかを理解する必要があったのである。博物学的記述はまず第一歩と言っていいだろうが、何よりも、いかに私たちの持っている疑問が的外れなものか、相手にしている構造がいかに複雑なものかを明らかにしてくれた。これらのモデルはWeb2.0に充分ではないが手始めの近似としては悪くないものといえる。
評判システムは社会的構造をローカル化し、それぞれの文脈の中での信頼・尊敬・関係を明示するために出現した。評判は全体に共通な構造は持たず、それぞれの文化的なコンテキストに深く埋め込まれている。
Web2.0がうまくいくためには、パーソナル、ローカルな共同体、そしてグローバルの複雑な関係全てが、グローカライズされたネットワークにモデリングされていなければならない。私たちはグローバルな村のモデルを卒業し、万人共通の「真実」を仮定して情報アクセス問題に取り組むのをやめなければいけない。私たちは情報アクセスの問題をグローカライズされた文化の中に置いてみなければならない。フォークソノミーは個人と全体の織り成すダンスとしてその姿を現しつつある; リミックスは個人と共同体がグローバルに対して反応する中で起こる。これらは皆グローバルな情報をグローカライズ的に組織化し文脈付けているのである。
ローカライズされた情報アクセスは、隔離されているが等しいということではない。そうではなく、グローバルにアクセス可能な情報がローカルな文脈の中で意味づけられ組織化される必要がある。推薦システムは、ローカルな共同体が情報を組織化し、個人個人の推薦をもとにネットワークと評判を活用していく道を開くものなのだ。

社会体制 institutional structure

ローカライズされた情報アクセスを可能にする技術社会システムの発展を見てきたが、社会体制もまた動いている。オープンAPIは政治的なお墨付きでもあるが、グローカライゼーションの鍵でもある。ローカルな文化のためには情報を細かくばらしたい; これはローカル文化自身が情報をつまみ食いできる必要があり、何らかの組織に頼っていてはユニバーサルな整理法しか出てこないということを意味する。どんな組織でも、人々が望むだけのグローカライズされたシステムを作り出すに足る多様性は持っていない。
企業の構造もまたWeb2.0には重要だ。革新的なベンチャー企業と大企業との間におもしろい関係が形成されるだろう。ベンチャー企業は何らかのテクノロジーに集中し文化的な文脈にそってものを作り上げることができるが、より大きなインフラを作るだけのリソースは持っていない。ここが大企業の縄張りだ。彼らが、散らばったピースを一つにまとめる役割を果たすことになるだろう。だが、Web2.0な大企業はのびのある糊を使う責任がある。そしてグローカライゼーションが可能でありオープンさを許すような情報インフラを提供する責任がある。大企業は複数の文化にまたがっているが、それらを均質化してしまおうとすれば彼らはWeb2.0に失敗したことになる。セメントではなく、伸びのある接着剤である必要がある。グローバルな村をつくりたい時、ユニバーサルなものが欲しい時にはセメントでよいだろうが、それはWeb2.0流では、次にくる波ではない。

まとめ

Web2.0とはグローカライゼーションのことである。グローバルな情報をローカルな社会的文脈の中からアクセスできるようにし、またグローバルにアクセスできる情報をローカルに有意味に探し、整理、シェアし、作り出す柔軟性を人々の手にもたらすものだ。技術とユーザー体験は共にこのプロセスの重要な要素だが、それ自体はWeb2.0ではない。Web2.0は情報フローの構造的変化だ。単にローカルからグローバルへ、一から多へ、という変化ではない; 常に変化し、複数の方向へ向かう情報の複雑な流れであり、流れるにつれ情報は進化していく。新しいネットワーク構造であり、グローバル及びローカルな構造の中から現れるものだ。
Web2.0が機能するためには、様々な文化が技術をどのように解釈しているか、そしてそれぞれの解釈をサポートしていくことに注意を払う必要がある。そして柔軟なインフラをつくり、創造的なリユースを可能にするようなつながりをつくる必要がある。
Web2.0が既に与えられたものではないことを認識するのは大切だ - これから先オシャカになることだってあり得る、特にパワーとコントロールが入り込んだ場合には。Web2.0社会技術的な問題であり、技術一辺倒では解決できない。技術によって文化を規定するのではなく、技術によって社会的文化的プラクティスがサポートされる必要がある。技術は建築物だ。そのデザインにおける決定は結果を大きく左右する。デジタルアーキテクチャは原子の制約は受けていないが、人間のコントロール欲にはまだ支配されている。私たちはすでに沢山のデジタルアーキテクトが自分たちの創造物の柔軟性をコントロールしようとし、変化と進化をはばむのを見てきた。
Web2.0では情報のコントロールと所有をあきらめなければならない; 情報はまた別の人にとっては、その人の文脈の中で理解し解釈しなおすことが出来なければ無意味なのだ。まさにこの理由によって、技術だけでは不充分なのだ - Web2.0には政治的な側面が出てくる。昔ながらの情報組織によって作られた法律と政治的サポートと、技術の進歩と文化的要求とが正面衝突するだろう。このために、情報財と著作権問題もWeb2.0の鍵となっているのである。
また、Web2.0ではローカルな文化的価値を意識的に前面に出しつづける必要がある。取り返しのつかないほど破壊的になる可能性、ローカル文化をサポートしようとしながら破壊してしまう可能性は高い。私たちは皆技術に自分たちの欲求を作りこむ傾向があるが、Web2.0の価値は作り手だけでなく全ての人が自分たちの欲求を技術に組み入れることを可能にすることにある。文化を踏みにじってしまうのはまったく破壊的であろう。
Web2.0が成功するためには、技術と政治はグローカライズされたニーズと欲求に従わなければならない。これは込み入った問題にみちたチャレンジングで複雑なプロセスになるだろう。技術者、デザイナー、社会科学者それに政治屋が、それぞれの価値観と圧力をもって参加する未知のダンスだ。このダンスによって恐らく民族国家と社会体制が崩壊するだろう; それぞれのグループが己の力が無きものにされるのを阻止しようと動くことだろう。中国もRIAAもどちらもWeb2.0に実現してほしくはないし、彼らはすべてを台無しにする力をもっている。
Web2.0を信じるならば、まず人に関心を向け、人々と、人々の必要とするものを常に念頭に置きながらデザインし創造し、再度デザインし再創造していく責務がある。技術と商売を人々のニーズに従わせることだ。さもければ、Web2.0は完全に崩壊するか、体制的権力の単なるメンテナンスツールになってしまうかもしれない。
シリコンバレーにいるのにはぞくぞくするような時だ。ポテンシャルは高い。分散しグローカライズされた社会を支える道を、Web2.0が行けるところまで行くのを僕は本当に見届けたいと思う。